安楽平城主小田部民部大輔鎮通の里城と云われる。
天正7年(1579)龍造寺隆信に攻められ、安楽平城は落城し、小田部氏は滅亡し、
当城も落城し、廃城になったという。(福岡県の城より)
現在、宝満神社に小田部氏の館があったようだが、
講倫館高校となった城跡は周囲よりやや高い位置にあるくらいで、遺構は全く残っていない。
尚、発掘調査では堀の跡など検出されている。
天文元年(1532)細川蔵人光行は足利幕府の命を受けて、九州鎮撫のために下向し、
細川若狭守と称し、築城した。
永禄元年(1558)安楽平城の小田部紹叱と戦い討ち死にし、子の左近助は龍造寺隆信に従った。
秀吉の九州征伐後に小早川隆景の家臣として、120石を拝領した。(福岡県の城より)
昭和50年畑地造成により調査が行われた。現在は民家の境に土塁の跡が残り、
堀の跡にも水が流れて入れる。
すぐ裏手の畑で作業中の方に話を聞いてみたら、まさに城址に住んでおられる方で、
40年前に堀などを埋めてしまったということだった。
その後、丁寧に説明をしていただけた。
北側は崖のようになり高台にあることが分かる。その北側に吉武金武遺跡がある。
屏山は近世まで宇土浦山と呼ばれており、
平家城と云われていたという。(福岡県中近世城館遺跡等詳細分布調査報告書1より)
古処山から行くと、山頂手前に、浅くなっているが2本規模の大きな堀切が残っている。
屏山山頂は東西に伸びた平坦地となっている。
一方、茅城方面は急斜面で、1本堀切の痕跡がある。
三瀬城を本城とする神代氏の詰城と考えられる。(福岡県の中近世城館跡IIより)
標高967mの金山の山頂周辺に遺構が点在する。
山頂は細長く腰郭らしい平坦地も存在する。南側に堀切のような段があり(左端画像)、
少し小爪峠方面に下ると堀切がある(左2)。
一方縄張り図には載っていないが、北側は切り立った崖状となっており、登山道を下ると、堀切が良く残っている(左3,4)。
金山は4回目くらいの登頂であるが、北側の堀切に全く気付いてなかった。
背振山地は福岡側が傾斜がきつく、佐賀側は緩い。神代氏や竜造寺氏が筑前をうかがう城だったのだろうか。
安河内遠江守、または立花山城の出城で戸次治郎兵衛、または安河内筑前守、光安筑後守、隈本筑後守が城主であったとし、
諸説ある。(福岡県中近世城館遺跡等詳細分布調査報告書2より)
北側に、九電の送電線の補修用の階段があり、山頂まで楽に辿り着ける。
最高所が金居塚城、南へ伸びた石碑(鐘塚城址・稲居塚城址)のある場所が稲居塚城と推定されているが、1つの城であることには間違いない。
どちらも古墳が残っている。周辺は削平地が見られるが、後世の耕作によるものかはっきりしない。
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