筑前27



小田部城都地城屏山城金山城稲居塚(金居塚)城

小田部城

福岡市【最寄り駅】地下鉄七隈線次郎丸駅

安楽平城主小田部民部大輔鎮通の里城と云われる。 天正7年(1579)龍造寺隆信に攻められ、安楽平城は落城し、小田部氏は滅亡し、 当城も落城し、廃城になったという。(福岡県の城より)
現在、宝満神社に小田部氏の館があったようだが、 講倫館高校となった城跡は周囲よりやや高い位置にあるくらいで、遺構は全く残っていない。 尚、発掘調査では堀の跡など検出されている。


都地城

福岡市

天文元年(1532)細川蔵人光行は足利幕府の命を受けて、九州鎮撫のために下向し、 細川若狭守と称し、築城した。 永禄元年(1558)安楽平城の小田部紹叱と戦い討ち死にし、子の左近助は龍造寺隆信に従った。 秀吉の九州征伐後に小早川隆景の家臣として、120石を拝領した。(福岡県の城より)
昭和50年畑地造成により調査が行われた。現在は民家の境に土塁の跡が残り、 堀の跡にも水が流れて入れる。 すぐ裏手の畑で作業中の方に話を聞いてみたら、まさに城址に住んでおられる方で、 40年前に堀などを埋めてしまったということだった。 その後、丁寧に説明をしていただけた。 北側は崖のようになり高台にあることが分かる。その北側に吉武金武遺跡がある。


屏山城

朝倉市(旧甘木市)・嘉麻市(旧嘉穂町)

屏山は近世まで宇土浦山と呼ばれており、 平家城と云われていたという。(福岡県中近世城館遺跡等詳細分布調査報告書1より)
古処山から行くと、山頂手前に、浅くなっているが2本規模の大きな堀切が残っている。 屏山山頂は東西に伸びた平坦地となっている。 一方、茅城方面は急斜面で、1本堀切の痕跡がある。


金山城

福岡市・佐賀市(旧三瀬村)

三瀬城を本城とする神代氏の詰城と考えられる。(福岡県の中近世城館跡IIより)
標高967mの金山の山頂周辺に遺構が点在する。 山頂は細長く腰郭らしい平坦地も存在する。南側に堀切のような段があり(左端画像)、 少し小爪峠方面に下ると堀切がある(左2)。 一方縄張り図には載っていないが、北側は切り立った崖状となっており、登山道を下ると、堀切が良く残っている(左3,4)。
金山は4回目くらいの登頂であるが、北側の堀切に全く気付いてなかった。 背振山地は福岡側が傾斜がきつく、佐賀側は緩い。神代氏や竜造寺氏が筑前をうかがう城だったのだろうか。


稲居塚(金居塚)城

福岡市

安河内遠江守、または立花山城の出城で戸次治郎兵衛、または安河内筑前守、光安筑後守、隈本筑後守が城主であったとし、 諸説ある。(福岡県中近世城館遺跡等詳細分布調査報告書2より)
北側に、九電の送電線の補修用の階段があり、山頂まで楽に辿り着ける。 最高所が金居塚城、南へ伸びた石碑(鐘塚城址・稲居塚城址)のある場所が稲居塚城と推定されているが、1つの城であることには間違いない。 どちらも古墳が残っている。周辺は削平地が見られるが、後世の耕作によるものかはっきりしない。




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