筑紫氏の端城といわれる(福岡県の城より)。亀ノ尾城の出城とも(福岡県の中近世城館跡IIより)。
標高138mの松尾(老林)山の頂上。本丸は三日月状で北に開いた状態である。
周囲を低い土塁で囲っている(下段最左)。
北は崖になっていて、南斜面に曲輪(二の丸、三の丸)が段々に存在し、
堀切や畝状竪堀で守っている(下段2,3画像)。
また、北西斜面を下ると、堀切があり(下段左4)、土橋状の道を進むと竪堀が数条落ちており、
道は土塁を登り堀切となる(下段最右)。さらに自然道を登るとII郭があったようだが、
今回は未確認。
千葉氏の築城という。
その後、勝尾城の筑紫広門の支城。
勝尾城が攻められ落ちる度に、この城に逃げ込んだ。
だが、秀吉の九州征伐前に大友方に寝返った筑紫氏は秋月・島津軍に攻められ、
勝尾城では広門が降伏し、
この一ノ岳城も家臣の山田河内守が守ったが遂に落城した。
南畑ダムの脇から登り口がある。屋敷跡なのか、石塁がある。
林道から登山道に入り、しばらく行くと、曲輪跡らしき箇所に出て、
少し行くと、長方形の平坦地に出る。屋敷跡と云う。
さらに登ると、二の丸と小高い曲輪(亀の尾方面への道へ繋がる)がある。
二の丸の北側には2段からなる石塁が今も残る。
二の丸を過ぎ、上がって行くと、本丸に着く。
本丸には櫓台の跡や西には石塁がある。
北西、北東に腰曲輪が存在する。
秋月・島津軍に攻められた時に、一ノ岳城とこの亀の尾城とに籠ったが、
先に包囲され、落城した。
ダムの麓から行く街道沿いには、屋敷跡なのか石塁で段々となった所がある。
そこを過ぎると、亀の尾峠に出る。そこを西に行くと一ノ岳城。
東に行くと亀の尾城に出る。亀の尾城の遺構ははっきりしない。
北西から南東にかけて細長い構造になっている。
南東端に土塁らしき構造が見られる。
歴史的背景は不明。坂本峠越えの敵に対する番所的な役割か?
佐賀橋バス停のすぐ横にある。
山頂には地蔵があり、細長い構造の平坦地となっている。
規模は小さい。
米多比氏の居城。その後、立花城の支城として、大鶴宗松が城番となった。
古賀市と福間町の境にある、つぐみ岳の頂上付近。
清滝にある清瀧寺裏から古賀市登山協会による登山道がある。
本丸は、平坦に長方形の形をしている。北側にかすかに土塁の跡がある。
そこから西山への縦走路・南に5m程下って、曲輪がある。
清瀧寺・西側から登ると、かすかに竪堀らしい跡が残っているのが分かる。
『福岡県無名山301』で『福岡県の城』に未掲載の城跡と記載されてあるが、
単に、この"つぐみ岳"の所在地が前者では古賀市で、
後者では福間町になっているだけであった。
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