馬加康胤の子孫千葉輔胤が築城する。秀吉の北条攻めの際に落城、
下総守護千葉氏は滅亡した。
千葉氏の居城だけあって規模は大きい。下総台地の地形を利用したような構造。
城山(本丸?)と奥の山との間の堀切は深く、
当時は橋か何か架けられていたらしい。
時間の関係で全て見られなかったのが残念。
ちょうど遺跡調査で立ち入り禁止となっていたが、関係者の許しを得て、
入らせてもらった。遺跡調査もほとんど終わったので良いということであった。
大永年間(1521〜28)に里見義弘の家臣多賀越中(越後?)守が城主であった。
永禄4年(1564)北条氏政に攻められ、落城した。
現在は、本丸(実城)はかなり薮化しており、
天神社があり、その裏手に突端状の曲輪がある(左画像)。
その下は深い崖となっている。
城のある小山の西は住宅地となっており、
その上部に祠のあり(右画像)、二の丸がある。
全体的に薮化していた。
真里谷武田氏の真里谷城に入った信高により支城として築城された。
その後、武田氏を破った、里見義尭が本城とした。
天正18年(1590)小田原攻めに遅参した廉で安房一国になり、
家康家臣の大須賀忠政が入った。関ケ原後は、
土屋氏が入ったが、延宝7年(1679)に改易され、
厩橋城主酒井忠清の領地となり、代官所が作られ、廃城となった。
寛保2年(1742)黒田直純が3万石で入り、明治維新まで続いた。
天守閣の立つ横に天守台がある。
そこから四方八方に伸びる狭い尾根伝いに遺構が残っている。
尾根は堀切で断ち切ってある。曲輪も残っている。
天正18年(1590)後北条氏滅亡後、
本多忠勝が10万石で大多喜根古屋城
に入ったが、防備に優れないので、
新たに築城した。本多氏の後、譜代大名が多く、入れ替わった。
規模は本多忠勝の頃から徐々に縮小され、明治維新の後廃城となったせいか、
堀は埋められ、現在、遺構はさほど残っていない。
天守閣脇に土塁があり、本丸の下に、曲輪が数段あるくらいである。
大永元年(1521)武田信清が里見氏の北上に備えて築城した。
天文13年(1544)、武田氏は里見方の正木氏に敗れ、正木時茂が入城した。
時茂の養子憲時の時に里見氏に叛旗を翻したが、家臣に殺害され、
里見義頼の次男時尭が嗣いだが、天正18年(1590)本多忠勝に攻められ、
落城し、滅亡した。
現在は、台状の住宅地になっており、遺構はよく分らない。
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