南朝方の南部氏により室町初期に築城された。
江戸期まで続き、遠野へ移封となり廃城となった。
現在は発掘後整備公園化されて忠実に復元されてある。
八戸藩の居城。
現在は三八城公園となっていて初代藩主南部直房の銅像がある。
天守台跡なのか小さな丘があるくらい。
北畠顕家の子孫、顕義の時に築城したと推測される。
一時繁栄したが、
その後、永禄5年(1562)浪岡御所の具運が川原御所を再興させた叔父の具信に殺害され、
衰退し、天正6年(1578)大浦為信に攻められ、北畠顕村は捕えられ滅亡した。
その後も天正13年(1585)に油川城攻めの際に拠点になっており、
しばらく使用されていたと推測されている。
浪岡川と正平津川の合流点の北に位置し、
新館、東館、猿楽館、内館、西館、検校館、北館、無名の館からなる。
新館、無名の館は住宅地や農園となっているようであったが、
それ以外は公園化され、遺構は良く残っている。
館と館の水堀の間に島状の土塁が残っているのが特徴的である。
掘立柱建物跡、竪穴建物跡、井戸跡等発掘され、発掘調査が進んでいる。
西館、検校館は未調査である。
(『浪岡城-中世城館の復元-』より)
慶長8年(1603)に津軽為信により堀越城から本城移すべく計画され、
同12年に2代信建、さらに為信が亡くなり、慶長15年に着手、
翌16年に完成した。寛永4年(1627)に落雷で南西隅にあった五層の天守閣は焼失し、
現存する天守閣は文化8年(1810)に蝦夷地警備の功績を認められた9代寧親が、
隅櫓の改修を理由に着工、翌年完成させたものである。
(大系・弘前城資料館資料より)
天守閣、東内門、南内門(右画像)、追手門、北門、東門、辰巳櫓、
未申櫓、丑寅櫓が現存する。
建武3年(1336)北朝方の曾我太郎貞光が築城したことが文献で確認されている。
元亀2年(1571)大浦為信はこの堀越城から出陣し、
石川城を急襲、落城させ、南部(石川)高信を討った。
文禄3年(1594)に大浦城から本城を移した。
慶長7年(1602)に天藤騒動などあり、高岡(現弘前城)へ本城を移す計画を立てた。
が、2代信建、初代為信は京都で病死し、
慶長15年(1610)3代信枚が築城を始め、翌年完成し、その後廃城となった。
昭和60年に国指定遺跡となり、平成10年から史跡公園として整備するために、
発掘調査を行っている。
熊野宮のある本丸を囲む土塁とその外に内堀、
さらにその外に、二の丸と土塁、外堀が、さらに三の丸が残る。
三の丸は国道7号に寸断されている。
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