蜂須賀家政が渭津に築城し、徳島と呼ぶ。
現在は御殿の位置に博物館があり、本丸を含め、城は石塁や曲輪等残っている。
当時は現在と異なり、川に挟まれた、浮き城のような形態だったようだ。
承久の乱の後に守護となった細川氏が南北朝の頃に
守護所を秋月城から勝瑞城に置く。細川持隆が家臣の三好義賢に
謀殺された後は三好氏の居城となった。十河存保が城主の時に
長宗我部元親に落城された。蜂須賀氏が徳島城の築城の際に
これを利用したという。
現在は見性寺境内が本丸跡。三好氏の墓もあるとか。
蜂須賀氏の徳島入府の際に城下町が崩壊したらしく、
近くに勝瑞城館跡もあるくらいで、それほど多く残ってはいない。
ただ、今でも見性寺は水濠に囲まれ、土塁の跡も残っている。
クリークの多い、福岡県筑後地方の城に形態が近い。
蜂須賀家家臣林道感が阿波九城の1つとして築城した。
戦国時代に川島兵衛之進が築城したとも。
一国一城令で破却された。
現在は川島神社となっていて、遺構は分りにくい。
吉野川を利用した平山城だったようだ。
現在、復元?されてある天守閣については疑問。
蜂須賀家家臣稲田氏の居城。阿波九城の1つ。
一国一城令で廃城となる。稲田氏は淡路へ。
秋葉神社を登った所から西にかけてあったそうだが、
場所が合っているのか分らないが、遺構ははっきりしない。
竹薮があって若干曲輪のような段があった。
さらに西に行くと草が繁茂した段状の地はあったが。
昔は松が3本生えていたそうだが、枯れて今はないとのこと。
天文22年(1554)城主小倉美濃守は阿波守護細川持隆を殺害した三好義賢を討つために鑓場に出陣したが討ち死にした。
(現地説明版より)
蔵本駅のすぐ北西の位置にあるのだが、駅前の案内図を頼りにかなり探すのに苦労した。
低階層のマンションの前にあり目立たず祠だけ残る。
少し西に行くと田宮川が今も流れ、外堀にしていたという。
このページの著作権は、作者に帰属します。 画像などの2次利用は御遠慮下さい。