小竹町のサイトに『粥田圧勝野郷名主館が置かれていた所』とある。 また、城址の碑があると書かれてあるが、標高20mくらいの山が連なっており、 薮化していて、 その遺構を見出すことは困難。観音堂がある。
天山の柴田城が筑紫氏の居城であったことや、
東側の谷にある石塁等(屋敷跡?)を見ると、やはりここも筑紫氏の居城であったか。
ただ、堀切などの構造も見られず、時代としては古いのか。
旭化成側(東側=山家側)から登ると、
石塁が連なり、祠の手前から、はっきりとしないが多少、
曲輪の跡が残っている気がする。さらに祠に出て、山頂までにも、
かすかに堀や腰曲輪の跡がある。
石塁は小川に沿うように中腹からかなり続く。
また、祠のある平地から南側にある平地も曲輪の跡のようで、
南に下るように曲輪の跡らしき段状の地が続く。
こちらも堀切の跡などは確認していない。
古代山城跡は西斜面に展開される。 ↓の画像は、筑紫野市史による表記(第1発見者中嶋氏の表記を改変)によれば、 J,I,A,K,N,N,M。 水門跡と推定されているJの下には崩れた石が落ちている。 Jに一部木が生えていることから想像すると、その部分の物か。 また林道を挟んだ上流にも、遺構らしき箇所がある。 さらに林道を進むと、K,Lの辺りに、その当時の物か後世の物か判断しにくいが、 石塁が見られる。標高を上がった所にある、 M,Nの場所の下にある谷にも石塁の跡であろう石が崩れて転がっている。
『「中近世城館跡I〜III」の補遺』記載で中阿志岐登山口から近い。 東側の堀切や竪掘は残っている。 それ以外は植林で削られてしまった感もある。
蘆城城跡とされている259m地点から宮地岳山頂へ向かった途中にある。 堀切が1条あり、送電線のある辺りが小高く、主郭のようにも見える。 切岸も数段残っている。
十郎ヶ城といわれた。宗像氏37代氏仲の居城とも、家臣吉田十郎の居城とも。
吉田にある電波塔より少し行った所であるが、本丸は三角点(98.1m)があるはずで、
それを確認していないので、玄海町誌にある出丸しか確認していないかもしれない。
西側にコの字の構造をしており、コの字の中は、3番目の画像のような平坦地。
コの字の上の突端が確認した中では最高地点で、2番目の画像のように、
古墳かもしれない。城址にしては、ボコボコした土地で推定地として、
誤りかもしれない。
楢原備後守高利が築城。その後、秋月種実の出城として
家臣内田善兵衛が城番となる。深江伯耆守が在城したとも。
本丸南を調馬場跡という。本丸北東を"たかおとし"という。
目配山への登山道の途中から行ける。
東から行くと、まず堀切(画像1,2)があり、しばらく登ると、
本丸とその北にある二の丸(画像3)に出る。登山道の横に1本大きな竪堀が残る。
本丸の南端に櫓台(画像4)が残っていて、現在も展望台として役目を果たしている。
また櫓台脇から西へ下ると堀切が1条(画像5)ある。
15年振りに再訪すると、展望台はなくなっていた。
南側の堀切は倒れた竹だらけで荒れていた。北側の堀切および竪掘は綺麗に残っている。
また北東斜面には畝所竪掘群が割とはっきりと残っていた。
下の画像は、 筑前町の廃棄物再生処理センター 「サン・ポート」側から目配山への登山道入口に存在する石塁。 目配山への登山道の途中にも城郭の跡のような地形があることを考えると、 この小鷹城などの屋敷跡か。
板並左京進が城主であったという。
阿弥陀ヶ峯(127m)の頂上にある金比羅神社の境内(画像1)が本丸跡のよう。
腰曲輪の痕跡が若干残る(画像2)。
また、麓の久光から登山道が続くが、
堀の跡らしい水路?や土塁のような跡もある。
また本丸北に続く、尾根伝いに堀切らしきものも1条残っている。
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